風水とは、単に地理と呼ばれたり、別名 堪輿(かんよ)學とも、または、山川(自然)哲学とも呼ばれ、ぞれぞれ厳密に言えば、意味が異なってくるのだが総括して上記のような呼び方をそれぞれしているのである。実際には総括したものを玄空學と呼ぶ

玄の原義は、暗く捉えがたいもの、くろい色、天の色が奥深く暗くまた、捉えがたいことから天を指す意味などがある。たとえば、「天地玄黄」とは、天地の色のことであり、天は奥深く計り知れない色の玄、地の色は黄色と言うことである。また、老子、道徳経上巻第一章に出てくる「玄之又玄、衆妙之門」も捉えがたく不思議だが確かにある道を指している。そのように、不思議で捉えがたいが確かにある道理を指しているのである。また、空とは、何もない様、全てを超えた悟りの境地を指し、全てのものに因果があり、一切が刻々と変化している中に不変の真理が有ると言うことを指しているのである。玄空學とはつまり、捉えがたく、変化して止まない万物の中に、一貫して通じる道と同化し、真理の道を探求する学問なのである。その中の一部に、堪輿學、山川哲学が統括されるもので、けっして同じ意味ではないのである

風水とは、晋の時代の郭璞の葬経にある「氣乘風則散、界水則止。古人聚之使不散、行之使有止。古謂之風水。」(気は風に乗って散じ、水に区切られて止まる。古人曰く、集めた気を散じさせないように、これを保つために行った。古くからこれを風水と言った。)という言葉から出たものであると言われている

堪輿とは、天と地のことであり、天地の神の意味もあり、天文と地理のことである。淮南子(漢の淮南(わいなん)王、劉安が学者を集めて老荘思想に基づき、儒家・兵家・法家などの思想を取り入れ、国家の治乱や逸事、雑学などをまとめたもの)に「堪輿徐行、雄以音知雌。」(堪輿はゆっくりと(おもむろに)行き、雄は音を以って雌を知る。とある。)

地理風水とはその名の通り、自然の主要な地理のことである。つまり、山在る所には、必ず川が存在する。玄空學の考えの根本は山が隆起する事や、それによって川がどのように流れるかもまた、何らかの偉大な意思によるものと考え、地形のでき方自体に何らかの意思があり、全てのものに存在理由が在ると言う考え方に基づいている。また、山の神と川の神、山の精と川の精も指す。

ある意味、玄空學や堪輿學においては、単なる天文や地理を看ると言うだけでなく、その上に何らかの意思があり、また、その道がTAOに通ずると考えるのである。