巒頭とは目に見える全てのものであり、物体は大なり小なり互いに影響し合うと云う概念に基づいた理論から成り立っている。
理気とは目に見えないため、実生活での影響は通常実感できないが、統計学的にも何らかの影響を与える理論上のものを云う。
巒 頭【rantou】
■巒 頭巒頭(らんとう)とは実際に目に見える山の形や形状、また川の流れる様子などから良い氣の集まるところを探したり、龍脈の勢いを看たりするものです。例えば、良く言われている”四神相応の地”などは巒頭の最たるもので後ろに山があり(玄武)、東(青龍)=青龍砂と西(白虎)=白虎砂の山に守られ、前(朱雀)には明堂(めいどう)があり、その前方に案山(あんざん)・・・そしてその向こうには朝山(ちょうざん)そして川が流れているような場所を言います。これが巒頭を看る・・・・・・・・・つまりその土地の形状を看ると言うことなのです。
この巒頭とは、風水にとって、とても大切なことで”家(陽宅)”や”墓(陰宅)”を建てるときは、まず巒頭(環境)が整っていることが最も重視すべきことなのです。この、巒頭によってどこに建てるのか、どの向を取るのかがほぼ決まってくるからです。この巒頭の看かたを間違えてしまうと、建てる場所も向きも違ってくるのですから・・・・・・・・・・・・だから、”風水”は絶対に机上で看れるものではないのです。陽宅でも実際にその建っている場所に行き、まず巒頭(周囲の環境)を看てから家の中を看ていくのです。まずは、大きいところから看て小さいところを看て行くのが原則であり、大元を看ずにして家具の配置換えだけしても仕方がないのです。・・・・・・・・場合(環境)によっては、そのぐらいしか出来ないこともありますが・・・・・・・・・・・それにしても廻りの環境は絶対看なくてはなりません。
巒頭は大きくは”都”を置く場所を看るものから小さくは”部屋”の家具の配置までと、とても範囲が広いのです。しかし、どこを看るにしても、何を看るにしても形は象意を含み過去と未来を表わしている事に変わりはありません。
理 氣【riki】
■理 氣
理氣(りき)とは、文字どうり”氣”の”理(ことわり)”を看ることで、氣を八方位、廿四方位、六拾四方位、三百八十四方位と看て行き、その方位は、現在”運に乗っているのか?また”自分の向き”や”座山”と合っているか?など、”自分(家・墓など)と山(龍・砂・峯)”の関係を看たり、”自分と水(水龍)の関係”を看たりしていきます。つまり、環境の”氣の分布”を看ることが一つと、その他に時間(三元九運や年・月・日・時)による氣の分布や、人との関係においての”氣”の変化などを見ることを言います。
そこで、”羅盤(らばん)”が必要となってくるのです。つまり”龍脈”を見付けてもその龍脈が現在、旺盛の運にあるのか、または、衰運になっているのかなどを看て、それに向きを合わせたり、時間と合わせたり、人と合わせたりして、その時の運を自分に引いてくるために”理氣”を看なくてはならないのです。
”理氣”をなくして”巒頭”は語れませんし、”巒頭”を看ずして”理氣”は語れないのです。
”理氣(りき)”と”巒頭(らんとう)”は車の両輪のようなもので、片方だけではとても走れません。そして、 理氣(りき)と巒頭(らんとう)とを合わせてはじめて”風水”となるのです。
よく、風水や気功などで「氣」と言う言葉をお聞きになると思います。当然何度も耳にした言葉でしょう。
「気に食わない」・「気になる」・「気のおけない」・「元気」・「病気」など、「氣」の付く言葉がたくさんあります。
では、「氣」とはどうゆう物なのでしょうか?
「この世界には、理と気があり、理は形而上の道で物を生ずる根本です。気は形而下の器で物を生じる材料です。」(朱子文集より)
形而下(けいじか)・形而上(けいじじょう)と言う言葉は形而學と言う学問の言葉ですので、またこれを説明いたしますと、大変膨大な量になりますから、ここでは言葉の説明に留めます。形而上とは、超自然的なもの。靈や魂なども入り、目に見えないものを指します。形而下は、現実世界や自然的なものを指します。)
最初から、ちょっと難しい文を引用しましたが、誤解を恐れず簡単に説明しますと「理」とは、目に見えない道理、法則であり、「氣」とは、物事を形成する根本材料であると言っているのです。
全ての物は、気を根本材料にして生まれます。だから、全ての物に気がある訳です。
「氣」は大きく分けて、「気質」と「物を生じる時の材料」と言う面があります。
つまり、どうゆう気によって物が形成されるかによって、その物の気質が違ってくると言う事です。人が生まれる時も、親や先祖、その場所の気によって、気質が変わってくると言える訳です。
そこに、風水の「陽宅や陰宅」の概念が生まれてきたのです。
気の良い所に生まれ育てばおのずと、質の良い物が生まれ育ちます。
その為に、風水を使い気の良い場所を探したり、あまり良くない気の場所を良くしたりするのです。
それでは、「理」とはどのようなものでしょうか?
「理」とは、料理、義理、原理、論理などのように下に「理」の付くものの共通の意味は「条理」とか「道理」「一定の正しい流れ」と言う意味が根底にあるものです。
朱子語類に次のような言葉が載っております。
「陰陽五行が錯綜しながら条理を失わないのが理である」
つまり、五行の気が巡る時にその巡り方に道理があるものを「理」と言うと言っているのです。
また、
「気が結集しないならば、理もなし」(朱子語類)
つまり、気が集まらない所には、条理(道理)も無いと言っています。
よく考えて頂くと分かると思いますが、気が無いと物が無いわけですから、物(現象も含む)の無い所に、条理や道理がある訳も無いと言っているのです。
しかし、そこには、「理」=「道理・原理」が必要であって、その、原理に沿って良い気を使えば、当然良い物が生まれ育ち、また、現在悪いのは、気が道理に添っていないからであり、それを道理に添って良い気を受けることにより、良くしていく事が玄空學風水なのです。
物質(物でも人でも)また現象においても「理」と「氣」はそこに必ず存在致します。
物が存在すれば、理氣が存在するのです。
その理氣を理解し、良い材料(氣)で道理(理)に添って物事が形成されれば、結果として当然良い物ができてくるのを、意識的に行うことを、風水を施すと言うのです。